一領の着物
著=北村由衣
序 いつも通らない道
遅刻する。
そう思ったときには、もう遅かった。少年は鞄を脇に抱え、見慣れた家々のあいだを駆けていた。家を出たときには、まだどうにかなると思っていた。坂道を走り切れたなら。校門の時計が、家の時計より少し遅れていたなら。
そういう、遅刻しそうな朝にだけ信じる都合のいいことを、少年はひとつずつ使い果たしていた。角を二つ曲がれば学校へ続く大通りへ出る。いつもならそうする。けれど、その日は、なぜか一本手前の細い道へ足を向けた。通ったことのない道だった。近道かもしれない、と思ったのだ。
板塀が続き、軒が近かった。道はいつの間にか細くなり、少年の靴が乾いた音を立てた。見慣れない景色をおかしい、と考える暇はなかった。
道の先に暖簾が見えた。白地に、蕎麦、と二文字。店先には水を打った跡があり、戸口の脇には箒が立てかけてあった。中から包丁の音がする。
少年は軒先で、つい足を止めた。
店には男が三人いた。一人は卓を拭き、一人は盆を運び、もう一人は入口近くに立っている。誰もが妙に背筋を伸ばしていた。その奥に、筆を持って紙へ向かう娘がいた。
「坊ちゃん」
入口の男に声をかけられた。
「お急ぎではありませんか」
「あ、いや」
少年は暖簾から離れた。男は穏やかに笑い、深く頭を下げた。
「お気をつけて」
急がなければならない。そう思うのに、少年は店の外でしばらく立ちすくんだ。
暖簾の奥、帳場に一人の女が立っていた。地味な着物に前掛けを締め、髪をきちんとまとめている。女は少年を見ていた。
目が合った。
「遅刻する!」
少年は叫んで走り出した。その背後で暖簾が揺れた。
一 市の娘
そのころ、女にはまだ夫がいた。二人で蕎麦屋を営んでいた。大きな店ではなかったが、昼どきには職人や商人で席が埋まり、夕方になれば酒を一杯つける客もいた。夫は蕎麦を打ち、女は帳場に座り、忙しいときには二人とも店中を走った。夫は愛想がいいほうではなかった。客に何か言われれば、たいてい「へい」とだけ答えた。けれど、常連はそれでよかった。女が帳場から二人分しゃべるから、店としてはちょうどよかった。
子はいなかった。それを寂しいと言う者もいた。女は笑って聞き流した。夫は聞こえないふりをした。
ある日、仕入れの帰りに市を通った。人が多かった。野菜、魚、古道具、反物。呼び声が重なり、荷車が道を塞ぎ、買い手と売り手が値を言い合っていた。女はそこで娘を見た。初めは、着物を見たのだった。人混みの中でも目につく着物だった。華美というのではない。布も仕立てもよく、染めの柄には見たことのない癖があった。季節の草花を散らしているようで、よく見ると同じ花が二つとない。
どこかの家のために、一領だけ誂えたものなのだろう。その着物を、小さな娘が着ていた。八つほどに見えた。娘は俯いていた。髪は一応結われていたが、何日もきちんと手を入れられていない。着物だけが妙に立派だった。
傍らに男が立ち、値を口にしていた。女は足を止めた。夫も止まった。何を売っているのか、一瞬わからなかった。着物か。娘か。
男の口ぶりを聞くうちに、その区別には意味がないのだと知れた。
「着物も込みだ」 男は言った。
「これだけのものだ。娘に着せておけば見栄えもする。別々にはしない」
娘は顔を上げなかった。 女は、着物の袖を見た。 小さな手が半ば隠れている。
爪の際に土が入っていた。 夫が低い声で言った。
「行くぞ」
女は動かなかった。
「おい」
「聞こえてる」
「聞こえてるなら」
「いくら」
男が女を見た。夫が目を閉じた。
「何が」
「この子」
男は値を告げた。
安くはなかった。女はもう一度、「いくら」と聞いた。
「だから、今言っただろう」
「この子を、ここから連れていくにはいくら要る」
男は女の顔を見て、それから夫を見た。夫はしばらく妻を見返した。
「足りるのか」
「知らない」
「知らないって」
「持ってるだけ出して」
夫は大きく息を吐いた。懐に手を入れた。
帰り道、娘は夫婦の少し後ろを歩いた。女は何度か振り返った。夫は一度も振り返らなかった。しばらく歩いてから、女は立ち止まった。娘も止まった。
娘は例の着物を着たままだった。よく見れば裾に泥がついている。袖口も少し擦れていた。
「名前は?」
娘は小さな声で答えた。女はその名を一度だけ繰り返した。
「腹は減ってる?」
娘は答えなかった。
「蕎麦は食べられる?」
今度は、ほんの少し頷いた。夫が先を歩いたまま言った。
「蕎麦屋の娘が蕎麦食えなきゃ困るよな」
女が夫の背中を睨んだ。娘が初めて顔を上げた。夫は振り返らなかった。
「うちへおいで」
女は言った。「買った」とは言わなかった。 夫も言わなかった。
店に着くと、夫は蕎麦を小盛りにして娘の前へ置いた。娘は卓の前に座ったまま、箸を取らなかった。
「嫌いだった?」
女が聞く。娘は首を振った。
「じゃあ、お食べ」
それでも動かない。
夫が向かいに座った。自分の分の蕎麦をすすった。
「冷めるぞ」
娘は箸を持った。一本、二本と食べた。それから急に速くなった。女が「ゆっくり」と言う間もなく、椀は空になった。
夫は立ち上がった。もう一杯作った。
「食べすぎると腹を壊すよ」
女が言う。
「八分目だ」
夫が言った。
「何を根拠に」
「俺の勘」
「当てにならないねえ」
娘が二人を見た。
その晩、女は娘を風呂へ入れた。着物を脱がせると、細い身体が現れた。女は何も言わなかった。娘も何も言わなかった。湯から上がると、女は自分の古い着物をほどいて作った寝間着を着せた。
例の着物は畳んだ。 裾の泥が目についた。 洗わなくては、と女は思った。
それが、女がその着物にした最初の手入れだった。
二 三人の店
娘は、最初のうちは何をするにも許しを待った。朝、起きてよいか。水を飲んでよいか。店の隅に座ってよいか。厠へ行ってよいか。
女は三日目で腹を立てた。娘にではない。
「いちいち聞かなくていい」
少し強く言ってしまった。娘の肩が縮んだ。 女は後悔した。
「……水くらい、好きに飲みな」
娘は頷いた。
翌朝も聞いた。
「お水、飲んでいい?」
女は天井を見た。夫が蕎麦を打ちながら笑った。
「百回くらい言わなきゃ無理だろ」
夫のほうが娘との距離を取るのは上手だった。構いすぎなかった。 朝、店の前を掃くときに箒を一本余分に置いた。娘が使えば何も言わない。 使わなければ自分で片づけた。
蕎麦を打つときも、見ている娘を追い払わなかった。
「やるか」
ある日、夫が聞いた。娘が頷いた。夫は小さな生地を渡した。娘は真似をして延ばした。 丸くなるはずのものが、妙な形になった。
夫はそれを見て言った。
「地図だな」
「地図?」
「どこか知らんが」
女が帳場から笑った。娘も少し笑った。
その日、娘の作った太さのばらばらな蕎麦は、三人で食べた。店の客には出さなかった。
「なんで?」
娘が聞いた。
「金を取るには十年早い」
夫が答えた。
「十年?」
「毎日やれば五年」
「ほんと?」
「たぶん」
「また勘でしょう」
女が言った。娘は声を立てて笑った。
そのころから、娘は店を家だと思い始めた。少なくとも女にはそう見えた。
客のいない時間には店先へ出るようになった。近所の子どもが通れば目で追った。祭り囃子が遠くから聞こえれば、戸口まで行った。女はまだ、それを止めなかった。
夫がいるから、という気持ちがどこかにあった。自分が帳場にいて、夫が蕎麦場にいる。二人の目がある。店には壁があり、戸がある。それで十分だと思っていた。
娘が来て半年ほど経ったころ、夫が読み書きを教え始めた。教える、と言っても、夫自身は大した学があるわけではない。仕入れの品と値を書く。 客のつけを書く。 店の名を書く。
娘は覚えるのが早かった。
「お前より字がうまくなるね」
女が言う。
「もう、うまい」
夫が言った。娘は紙の上で筆を止め、笑いをこらえた。
やがて女は、きちんと教えられる者を頼んだ。
「女の子にそこまで要るかね」
近所の者に言われた。女は答えた。
「要るかどうか、自分で決めるにも読めなきゃ困るだろ」
夫は横で頷いた。
「算盤もだ」
「お前はまず自分の勘定を間違えるな」
店には、そういう日々が二年あった。娘は八つから九つになり、九つから十になった。
着物はそのあいだ、何度か女の手に広げられた。最初は泥を落とすためだった。 次は袖口の擦れを直すため。
その次は、娘の背が伸びたからだった。
「着せるの?」
夫が聞いた。
「今は着せない」
「じゃあ、なんで直す」
「合わなくなるでしょう」
「着せないのに?」
女は針を持ったまま夫を睨んだ。夫は酒を飲んだ。
「好きにしろ」
女は丈を出した。娘がいつ着てもよいように。
そのつもりだった。
三 帳面
娘の元の家がわかったのは、二年目の冬だった。女は探していた。市で娘のそばにいた男は親ではなかった。借財の取り立てに関わる者だったらしい。いくつか人を辿り、ようやく家を見つけた。貧しかった。
怠けていたわけではない。働いても、働いても、足りなかった。病人が出た年に借りた金が残り、返すために別の借りを作り、家の中から売れるものが消えていった。着物は、娘の祖母が遺したものだった。娘のために本裁ち四つ身へ仕立て直したという。最後に残ったものを、最後に残った娘に着せて、まとめて手放した。
その話を聞いた夜、女は長いこと口をきかなかった。夫も何も言わなかった。娘は奥で眠っていた。
「会わせるか」
夫が尋ねた。
「今は」女は少し間を開けた。「今は、やめる」
「そうか」
「金を渡す」
夫が女を見た。
「戻すんじゃなく?」
「戻して、また同じことになったら?」
「じゃあ、どうする」
「同じことにならないようにする」
女は紙の綴りを開いた。市で払った金額は、既に書かれている。着物のことも。娘の名も。
その下に、新しい項目を作った。元の家へ渡す金。
「毎月?」
「毎月じゃ目立つ。時を見て」
「いつまで」
女は筆を止めた。
「この子が、自分で決められるようになるまで」
まだ何も書かれていない新しい頁を開いた。元の家へ送った金とは別に、娘のために取り分けた金を書いた。少しずつ積み上がっていく金銭の記録だった。何に使わせるかは決めていない。娘が自分で決められるようになったとき、そのまま渡すつもりだった。
市で払った金。元の家へ渡した金。娘のために残す金。すべてを分けた。夫は綴りを覗き込み、苦笑した。
「ずいぶん細かいな」
「あとでわからなくなったら困るだろう」
「誰が」
女は少し考えた。
「この子が」
「見せるのか」
「いつかね」
「いつ」
女は夫を見た。
「自分で決められるようになったらって、今言っただろ」
夫は笑った。
「その『いつ』を聞いたんだ」
女は筆の尻で夫の手を叩いた。
「うるさいよ」
四 未亡人
夫が咳をするようになったのは、その翌年だった。初めは風邪だと思った。店に立った。蕎麦も打った。娘が十一になる少し前、夫は寝床から起きられなくなった。病は長くなかった。
娘は毎日、夫のところへ行った。読み書きの手習いで書いたものを見せた。算盤で解いた問題を見せた。一度、昔作った歪な蕎麦の話をした。
「今なら、もっと丸くできるよ」
夫は笑った。
「まだ客には出すな」
「もう三年だよ」
「あと二年」
「五年って言ったもんね」
「覚えてたか」
「覚えてるよ」
夫は娘の頭に手を置いた。
「じゃあ、二年したら女将に出してもらえ」
「おっ母さん、出してくれるかな」
「俺より厳しいからな」
女は襖の向こうで聞いていた。立ち入らなかった。数日後、夫は死んだ。
店を閉めたのは数日だけだった。
女は喪を終えると帳場へ戻り、夫がいたころと同じ時刻に暖簾を出した。蕎麦場に夫はいなかった。そこだけが、妙に広かった。
最初の一月の間、女は何でも自分でやろうとした。仕入れ。帳場。客。娘。夜の戸締まり。着物の手入れ。湯を見ているあいだに客が来た。客の勘定をしているあいだに鍋が吹いた。仕入れに出ようとすれば、店と娘を残すことになった。
ある昼、娘が奥から出てきて言った。
「さっき呼んだのに」
女には聞こえていなかった。用自体はたいしたことではなかった。それでも、その言葉が耳に残った。
戸締まりをした。一度、裏口を確かめた。寝床へ行きかけて、戻った。もう一度確かめた。
火は落とした。落としたはずだった。ある晩、鍋を火にかけたまま綴りを見ていて、焦がした。娘が気づいた。
「おっ母さん」
女は鍋を見た。もし火が回っていたら。もし娘が寝ていたら。もし店が燃えたら。
夫がいなくなってから、女の頭には「もし」が増えた。もし客が暴れたら。もし泥棒が入ったら。もし娘が外で何かに遭ったら。もし自分まで倒れたら。
一人では回せない。それはもう、女にもわかっていた。
男を雇った。一人雇えば店が回った。忙しい時は、まだ足りなかった。二人いれば、一人が客を捌くあいだに一人が奥を見られた。
雇う男を一人、二人と増やした。蕎麦を打てる者。給仕のできる者。 力のある者。女が求めたのは、力の強さだけではなかった。
「客には頭を下げる」
最初の日に言った。
「酒を出しても、喧嘩はさせない。酔って声が大きくなったら水を出す。店の外なら好きにしろ。うちの中ではさせない」
男たちは頷いた。
「奥へ勝手に行かせない」
また頷いた。
「娘に声をかけるのは?」
男が尋ねた。女はその男を見た。
「用があれば私を通す」
「女将さんにも?」
「無礼は許さない」
一番若い男が、少し笑った。女はその笑いを見逃さなかった。
「力のある者ほど、丁寧にしな」
若い男は笑うのをやめた。
「手を出すのは最後だよ。頭を下げて帰っていただけるなら、それが一番いい。できるね」
男たちはできた。 驚くほど、よくできた。 店の評判は少し変わった。
蕎麦がうまい。店がきれいだ。給仕が妙に行き届いている。
そして、騒ぎを起こす客は長居できない。
ある晩、酔った男が奥へ向かおうとした。
「女将の娘がいるんだろう」
入口近くにいた店の男が進み出た。
「お客様、お席はこちらでございます」
「ちょっと顔を見るだけだ」
「お席はこちらでございます」
「なんだお前」
男が胸を突いた。店の者は一歩下がり、深く頭を下げた。
「本日はお帰りくださいませ」
次の瞬間には、酔客は外にいた。どうやったのか、ほかの客にはよく見えなかった。
女は帳場から一度だけ目を上げた。それで終わった。
娘は奥で、算盤を弾いていた。その夜、女は男たちに酒を一本出した。
「よくやったね」
「何もしておりません」
入口にいた男が答えた。
「そういうことにしておきな」
女は言った。
娘が奥から顔を出した。
「何かあったの?」
女は振り返った。
「何もないよ」
その言葉を、その後何度も使うことになるとは、そのときは思わなかった。
五 奥の娘
娘には店の仕事をさせなかった。皿を運びたいと言えば、女は「男どもがいる」と言った。帳場を手伝いたいと言えば、「まず自分の勘定を覚えな」と言った。
蕎麦を打ちたいと言えば、少し黙った。夫の声を思い出したからだ。
あと二年。約束の二年は、とっくに過ぎていた。
「そのうちね」
女は言った。娘は不満そうだった。
それでも学ぶことは嫌いではなかった。文字を習った。読み書きができるようになると、小咄を書いた。算盤を覚えた。帳面の付け方を覚えた。人に会ったときの礼を習った。
やがて、舞も習い始めた。師匠は、女が知人を頼って見つけた。初めのうちは、師匠を店へ招いた。奥の座敷を片づけ、そこで稽古をした。
初めて稽古を見た日、娘は何度も足を間違えた。
右へ行くところを左へ行き、扇を落とした。
「向いてないかな」
「一日でわかるものかね」
「おっ母さん、見て笑った」
「笑ってない」
「笑った」
「扇を拾う顔がおかしかっただけだよ」
「笑ったんじゃない」
娘は口を尖らせた。女は笑った。
娘が大きくなると、師匠の勧めで稽古へ通わせるようになった。ただ、一人では行かせなかった。店の男を一人つけた。
「行きも帰りも、決めた道を逸れさせるんじゃないよ」
女は初めにそう言った。男は律儀に守った。
ある日、娘が道沿いの店先で足を緩めた。見慣れない紙が並んでいた。
「少しだけ見てもいい?」
男は店を見て、それから娘を見た。
「申し訳ございません」
それだけで、娘にはわかった。女に言われているのだ。娘はまた歩き出した。
それから何年も、娘は舞を続けた。十二。十三。十四。
年を重ねるごとに、娘は外の話をするようになった。師匠の家までの決まった道で見た店。稽古に来るほかの娘たち。祭り。芝居。川辺。
「今度、みんなで祭りに行くんだって」
十三の夏、娘が言った。
「誰と」
「お師匠さんのところの子たち」
「師匠も?」
「途中までは」
女は考えた。
「今年はやめておきな」
「どうして」
「人が多いから」
「みんないるよ」
「人が多いから危ないんだよ」
娘は黙った。
十四の春。
「川の向こうの店に、紙を買いに行ってみたい」
「誰と」
「一人で」
「だめ」
「どうして」
「道を知らないだろ」
「お師匠さんのところより近いよ」
「近い遠いじゃない」
十五の秋。
「お師匠さんが、帰りは一人で大丈夫だって」
「暗くなる」
「まだ日があるよ」
「何かあってからじゃ遅い」
娘は女を見た。
「何かって、何」
女は答えられなかった。何でも、だった。何でも起こり得た。女にはそう思えた。
「どうしてこんなに覚えるの」
別の日、娘が尋ねた。女は帳場で銭を数えていた。
「覚えて困るものじゃないから」
「私、何になるの」
「なりたいものになればいい」
「外に出ないで?」
女の指が止まった。
娘はもう、市から連れてきたころの小さな子ではなかった。
「もう少し大きくなったら」
娘は笑わなかった。
「前もそう言った」
「そうだったかい」
「お祭りのときも。紙を買いに行くときも。稽古の帰りも」
「それはそれ、これはこれだよ」
「じゃあ、いつ」
店先から男たちの声がした。荷を運び込んでいるだけだった。それでも女は奥へ目をやった。
「もう少し、世間を知ってから」
娘は静かに言った。
「世間を知らないようにしてるの、おっ母さんじゃない」
女は銭を一枚落とした。床を転がった。娘は拾わなかった。女も拾えなかった。
その晩、二人はほとんど口をきかなかった。
六 一領の着物
着物は、店のいちばん奥に仕舞われていた。娘が市で着ていた、あの一領だった。女はそれを誰にも触らせなかった。娘にも。
「私のじゃないの?」
十二のころ、一度、娘が尋ねたことがある。
「お前のだよ」
「じゃあ、見てもいい?」
女は困った顔をした。
「今度ね」
「いつ」
「ちゃんと手入れが済んだら」
手入れは、いつも済んでいた。
夜、店の者が帰り、娘が眠る。女は戸締まりを確かめ、火の始末をし、最後に着物を出した。行灯のそばに座る。布を広げる。袖を返す。染みがないかを見る。糸が浮いていないか指で探る。小さなほつれを見つければ針を取った。
湿気の多い日には風を通し、虫を避けるために包みを替えた。
娘の背が伸びれば、仕立てを直した。八つの娘に合わせてあったものを、十の身体へ。 十から十二へ。十二から十四へ。十四から、もう娘と呼ぶことをためらうほど背の伸びた身体へ。
女は娘の肩を測った。袖の長さを見た。丈を確かめた。そのたびに、娘が大きくなったことは知っていた。着物だけは、毎年きちんと娘の今に合わせた。
誰に見せるでもない。娘に着せる日が決まっているわけでもない。それでも直した。
市から連れて帰った日の裾の泥は、とうに落ちていた。袖口の擦れも、どこにあったかわからない。 女はそれを嬉しく思った。傷がなくなるたび、あの日が遠くなるような気がした。
あの日。娘が値をつけられていた日。人と着物が一緒くたにされていた日。二つをまとめていくら、と言われた日。女は、二度とそんな目に遭わせないと決めた。着物も。娘も。
外へ出せば、何があるかわからない。誰が見るかわからない。誰が声をかけるかわからない。悪い者がいる。人を値踏みする者がいる。娘を娘としてではなく、別の何かとして見る者もいる。
だから、まだ。もう少し。もう少し立派になれば。もう少し世間を知れば。もう少し自分で身を守れるようになれば。女は着物を畳んだ。皺がつかないように。傷まないように。
汚れないように。 大切なものだから。 仕舞っておく。
襖の向こうで、床板が鳴った。女は振り返った。誰もいなかった。翌朝、娘は何も言わなかった。けれど、女には、夜の着物を見られたような気がした。
七 舞の日
娘が十六になった春、師匠が店を訪ねてきて言った。
「もう、人前で舞わせてもよろしいでしょう」
女はすぐには返事をしなかった。娘は隣の部屋にいる。聞こえているかもしれない。
「まだ早くはありませんか」
「何がでございます」
「人前に出るのが」
師匠は女を見た。長い付き合いになっていた。
「いつなら、早くなくなるのでございましょう」
女は眉を寄せた。師匠はそれ以上言わなかった。ただ、茶を一口飲んだ。
「腕のことを申せば、もう十分です」
師匠はそう言った。
「舞は、舞わなければ舞になりませんから」
その夜、女は着物を出した。いつものように広げた。いつものように袖を返した。
針を入れるところはなかった。染みもなかった。虫も食っていなかった。娘の丈にも合う。何もすることがない。
女は長いあいだ、着物を前に座っていた。夫がいたころを思い出した。着せないのに、なんで直す。あのとき、夫はそう言った。あのとき、女は答えなかった。
今なら答えられる。いつでも着られるように。いつでも外へ出られるように。そうするために直してきた。ならば、いつ着るのだ。いつ外へ出るのだ。
女は立ち上がり、帳面を出した。古い頁を開いた。市で払った金。元の家へ渡した金。娘のために積んだ金。年月を重ねた数字が並んでいる。
夫の字が残っている頁もあった。端に、小さく書かれている。「その『いつ』は、いつだ」女は指で文字をなぞった。
翌日、人を使いに出した。舞の日が決まった。大きな舞台ではなかった。知った者を招き、座敷を借りた。
女は元の家にも使いを出した。娘が舞う、とだけ伝えさせた。
舞の前の晩、女は着物を出した。包みを抱えて戻ると、娘は黙って女の手元を見た。
「これ」
女は包みを開いた。一領の着物が現れた。娘はしばらく動かなかった。
「覚えてる?」
女が聞いた。娘は首を傾げながら、「少しだけ。色を」と言った。
「着てごらん」
娘は女を見た。
「いいの?」
その一言が、女の胸に刺さった。お前のものだ、と何度も言ってきた。なのに、娘は自分の着物に触れるのに許しを求めている。
「いいも悪いもないよ」
女は言った。
「お前のだ」
娘の指先が袖に触れる。
女は反射的に「あっ」と声を漏らしかけた。触る前に手を洗ったか。爪は引っかからないか。そんな言葉が喉まで出た。飲み込んだ。
女が着付けた。襟を合わせる。帯を締める。裾を見る。
足りない。最後に直したときから、娘はまた伸びていた。女はしばらく裾を見ていた。
「脱ぎな」
「え」
「今夜、直す」
娘が着物を脱いだあと、女は行灯のそばに座った。
袖を返す。丈を取る。針を入れる。これまで何度もしてきたことだった。
ただ、その夜だけは違った。明日、娘がこれを着て外へ出る。そのために直した。それを娘が見ていた。
当日の朝、娘は落ち着かなかった。
「本当に、私が?」
「お前が」
「外で?」
「外で」
「人が見る?」
「舞なんだから見るだろう」
娘は笑った。その顔を見て、女は胸の奥がざわついた。
着物をもう一度着せた。襟を合わせる。帯を締める。裾を見る。今度は、どこにも余らず、どこにも足りなかった。
会場へ向かう道で、娘は何度も周りを見回した。店から師匠の家までとは違う道。人の声。 軒先。 子ども。 犬。娘にとって珍しいものばかりではないはずなのに、女には娘が何もかも見ようとしているように見えた。自分は、どれほど見せてこなかったのだろう。
招いた者が埋める会場の最前列に、見覚えのない者たちが座っていた。娘には見覚えがない。女には、顔そのものの見覚えはなかった。けれど、誰かはわかった。使いに出した男が、そっと頷いた。 娘の元の家の者たちだった。
年月は人の顔を変える。それでも、着物を見た瞬間、彼らの顔が変わった。一人の女が口元を押さえた。隣の男が俯いた。娘は気づかなかった。
音が始まった。娘が一歩出た。女は袖を見た。畳に触れそうだ。次に裾を見た。擦る。手を上げる。 袖が大きく翻る。
女の指が膝の上で動いた。汚れる。皺になる。糸が引かれる。
何年も守った布が、空気をはらんで揺れている。
娘が回った。
着物の柄が流れた。止まっていたものが、初めて一つの形になった。
女は息を止めた。こんな柄だったのか、と、思った。
毎月見ていた。何度も触れていた。どこにどの花があり、どこにどの糸が通っているか知っているつもりだった。
知らなかった。
袖は、腕が動けばこうなる。
裾は、足が運ばれればこう流れる。
布は人が着て動くと、畳んでいたときにはなかった形になる。
娘もそうだった。
読み書きを教えた。算盤を教えた。礼を教えた。舞を教えた。教えれば、いつか一人で立てると思っていた。一人で立てるようにするために、外へ出さなかった。
傷つかないように。騙されないように。奪われないように。誰のものにもならないように。女は前列を見た。元の家の女が声を立てずに泣いていた。その女の顔に、八年前の娘を探した。似ているところがあった。目元。娘がこちらを向いた。一瞬、目が合った。
その顔には恐れがなかった。女の知らない顔だった。そして、女がずっと見たかった顔だった。娘の足が畳を踏む。裾が擦れる。着物が揺れる。
女は、もう裾を見なかった。娘を見た。
舞が終わった。娘が頭を下げた。座敷のあちこちから、息を吐く音がした。それから拍手が起こった。娘が顔を上げた。
女は自分の膝に爪を立てていたことに気づいた。
手を開いた。娘が戻ってきた。頬が赤かった。息が弾んでいた。
「どうだった?」
女は着物を見た。裾に薄く埃がついていた。袖に小さな皺ができていた。
「おっ母さん?」
女は娘の顔を見た。
「よかったよ」
それだけ言うのに、少し時間がかかった。娘は笑った。
前列では、あの女がまだ泣いていた。
八 紹介しようか
帰り支度をしていると、娘が尋ねた。
「前にいた人たち、誰?」
女の手が止まった。
「泣いてた」
「そうだね」
「私を知ってるみたいだった」
女は帯を解きかけた手を離した。
娘の顔を見た。いつか、この子が自分で決められるようになるまで。昔、自分でそう言った。その「いつか」を、ずっと先へ動かしてきた。娘は待っていた。
女は前列にいた者たちのことを考えた。娘を手放した家。金を受け取ってきた家。 娘を売った、と言ってしまえば簡単だった。だが、あの家もまた、何かを失い続けた末に娘まで失った。だからといって、娘が会わなければならない理由にはならない。
血が繋がっているから。 産んだから。 育てたから。 金を払ったから。守ったから。そんな理由で、人を誰かのものにしてよいのなら、市で起きていたことと何が違う。
会わせるべきか。 会わせないべきか。 何を話すべきか。どこまで話すべきか。 考えれば、いくらでも決めることがあった。
女はひとつ息を吐いた。
そして、そのどれも自分が決めることではないのだと、初めて思った。
「紹介しようか」
娘は瞬きをした。女は続けなかった。 会いなさい、とも。会わないほうがいい、とも。
娘はしばらく考えた。
「……うん」
娘は着物を整えた。
女は頷いた。広間へ向かった。歩きながら、妙な心細さを覚えた。娘を守るために何かを決めるのは、ずっと簡単だった。決めないことのほうが、こんなに怖いとは知らなかった。
娘の両親は、まだ残っていた。女を見ると立ち上がった。
誰もすぐには口を開かなかった。娘が女の半歩後ろに立った。昔なら、その位置にいることに女は安心しただろう。
女は横へ一歩動いた。娘が前へ出られるだけの場所を空けた。
「こちらが」
言いかけて、やめた。
女は娘の名を呼んだ。 娘が一歩、前へ出た。女は二人を紹介した。関係だけを言った。娘は黙って聞いた。母親が泣きながら頭を下げた。
「すまなかった」
娘は答えなかった。女も答えなかった。謝罪を受け取るのは、自分ではない。
長い沈黙のあと、娘が言った。
「私、小さかったから、あまり覚えてないんです」
母親は何度も頷いた。
娘の指先が袖の柄に触れた。
「でも、この着物だけは覚えてて」
言葉がそこで切れた。
「今日、初めてちゃんと着ました」
女は目を伏せた。
向かいの二人は、目を逸らさなかった。八つの娘に着せて手放した一領が、いまは十六になった娘がその一領を身に纏っていた。
母親は裾を見た。そして袖を見た。どこにも余らず、どこにも足りずに収まっていた。父親は娘を見ていた。
九 還す
その夜、店を閉めてから、女は娘を帳場へ呼んだ。男たちはもう帰してある。二人きりだった。
女は紙の綴りを置いた。古いものだった。紐で綴じられた紙は年月のぶんだけ厚みを増し、端には手垢がついている。
「これは?」
「お前の話」
娘が眉を寄せた。
女は最初の頁を開いた。市のことを話した。着物のことを話した。値をつけられていたことを話した。夫と二人で連れて帰ったことを話した。
最初に蕎麦を二杯食べたことを話した。
「二杯?」
娘が言った。
「二杯」
「覚えてない」
「お父っつぁんが八分目だって言った」
娘が笑った。女も笑った。笑いが消えてから、続きを話した。
元の家のこと。金を渡してきたこと。娘のために、実家へ送った金とは別に金を残してきたこと。
綴りの頁を一つずつ見せた。途中に夫の字があった。娘は指で触れた。
「これ、お父っつぁん?」
「ああ」
「字、下手」
「お前が十のころには負けてたよ」
娘は少し笑った。
それから、夫の書いた端書きを見つけた。「その『いつ』は、いつだ」
「何これ」
女は顔をしかめた。
「余計なことを書く男だったんだよ」
娘は声を立てて笑った。女も、今度は少し長く笑った。
笑い終わると、部屋が静かになった。
「どうして、今まで言わなかったの」
娘が尋ねた。
女は答えを探した。守りたかったから。まだ早いと思ったから。傷つくと思ったから。どれも本当だった。
「怖かったんだろうね」
最後にそう絞り出した。
「誰が?」
少し間が空いた。
「私が」
娘が顔を上げた。
女は帳面に手を添えた。
「お前が知ったら、どこかへ行くかもしれない。あの人たちに会いたいと言うかもしれない。私の知らないものを選ぶかもしれない」
娘は黙っていた。
「だから、立派になったらと思った。もう少し大きくなったら。もう少し賢くなったら。もう少し世間を知ったら」
女は笑った。いや、うまく笑えなかった。
「世間を知らないようにしておいてね」
娘が帳面に目を落とした。長い沈黙のあと、ぽつりと言った。
「ずるいね」
「ああ」
女は頷いた。
「ずるかった」
「私のためだった?」
「ああ」
「おっ母さんのためでもあった?」
女は答えるまでに時間がかかった。
「ああ」
娘はまた頁をめくった。
綴りの最後には、実家へ送った金とは別に、少しずつ積み上がった金銭の記録があった。
「これは?」
娘が訊いた。
「お前の分だよ」
「いつから?」
「最初から」
娘はもう一度、綴りへ目を落とした。
女は鍵を一つ取り出した。
「これも」
「何の?」
「お前のものを入れてある」
「着物?」
「着物も。金も。この綴りも」
女は鍵を娘の手に置いた。
「これは、お前のものだよ」
娘は鍵を握った。
「店は?」
女は思わず笑った。
「欲しいのかい」
「わかんない」
「じゃあ、わからないままでいい」
「おっ母さんは?」
「私は蕎麦屋だよ」
「そうじゃなくて」
娘は少し困ったように言った。
「私がどこかへ行ったら」
女は答えなかった。 店の奥で、木が鳴った。夜の冷え込みで柱が縮んだのだろう。
「寂しいだろうね」
女は言った。
「でも、それは私のことだ」
娘は鍵を握ったまま、しばらく女を見ていた。
「今すぐどこかへ行くわけじゃないよ」
「そうかい」
「でも、行くかもしれない」
女は頷いた。
「そうかい」
「帰ってくるかもしれない」
「ああ」
「店をやりたいって言うかもしれない」
「蕎麦はまだ客に出してないね」
娘が目を丸くした。それから、二人で笑った。
「明日、打つ」
「勝手にしな」
「客に出す」
「いや、まず私が食べる」
「なんで」
「店の女将だからだよ」
娘は綴りを閉じた。
「じゃあ、明日も舞の稽古、行っていい?」
女は一瞬、癖で時刻を考えた。道中。人通り。誰をつけるか。暫し迷った。
「行っておいで」
言ってから付け加えた。
「暗くなるだろうし、迎えを寄越すよ」
娘は笑った。
「それはお願いする」
十 手の届くところ
翌日、娘は蕎麦を打った。丸くはなった。太さは少し揃わなかった。女は一口食べた。娘が向かいで待っている。店の男たちも遠巻きに見ている。
「どう?」
女は噛んだ。飲み込んだ。
「三年早い」
「五年経ってる!」
女は笑った。夫を亡くした年からいる男が一人、盆の陰で笑った。
その日の昼、女は娘の蕎麦を一人前だけ客に出した。 常連だった。
「今日は少し太いね」
客が言った。帳場の奥で娘が固まった。
女は平然と答えた。
「そういう日もあります」
店の者は誰も笑わなかった。
夜になってから、ようやく皆で笑った。
着物は、その後も店にあった。ただし、奥深く仕舞われたままではなくなった。娘は舞の稽古に着た。祝いの席にも着た。
一度、雨に降られた。裾に泥が跳ねた。女はその晩、ひどい顔をした。娘が笑った。
「洗えばいいでしょう」
「簡単に言うねえ」
ぶつぶつ言いながらも、女は丁寧に泥を落とした。
別の日には袖口の糸が切れた。女は針を取った。行灯のそばに座り、布を広げる。昔と同じだった。袖を返す。染みを見る。ほつれを探す。皺を伸ばす。娘が隣に座った。
「私もやる」
「針仕事できたっけ」
「習った」
「誰に」
「お師匠さんの奥さんに」
女は娘を見た。娘は笑った。
「そうかい」
針を一本渡した。
二人で袖を直した。
手入れが終わると、女はもはや着物をいちばん奥へは戻さなかった。娘が自分で取れる場所に仕舞った。また着るために。また汚すために。
また直すために。
終章 いつも通らない道
ある日、少年が道を走っていた。遅れそうだった。どうして細い道へ足を向けたのか、自分でもわからない。
白地に「蕎麦」と書かれた暖簾の出ている店があった。店の前に娘が立っていた。娘は店の奥ではなく、外に、立っていた。手には箒を持っていた。着物を着ていた。
きれいな着物だった。ただ、よく見れば袖口に小さな継ぎがあった。裾にも、落としきれなかったらしい薄い跡がある。 娘が少年を見て笑った。
「覗いてく?」
少年はぎくりとした。
「覗いてないし」
「そう」
店の中から女の声がした。
「急いでるんじゃないのかい」
少年は飛び上がった。
「やばっ」
走り出した。角を曲がる前に、一度だけ振り返った。
暖簾が揺れていた。 娘が立っていた。女が店の中にいた。
入口の男が、こちらを見て深く頭を下げた。少年も走りながら、なんとなく頭を下げた。
次の角を曲がった。
そこには、いつもの道があった。
人の行き交う音がした。少年は学校へ向かって走った。
もう一度振り返っても、曲がり角しか見えなかった。